あの時代、マスコミが民衆を支配していた
全員が、とは言わないが「ほとんどの人が」テレビを見ていた時代。
「テレビが言うことは正しい」「テレビが作ったブームに乗りたい」「就職するならマスコミ業界」と言われていた時代がある。
テレビに踊らされ、テレビに教えられ、テレビを信じていれば間違いない、と思っていた。
しかしごく一部の人間は、
テレビなんか見てたらバカになるぞ「洗脳される」
と言って、テレビを捨てた。
そういう人を、最初、「変わってるなー」と思っていたが、やがてインターネットの時代が来ると「テレビ・プロパガンダ」が暴かれてゆく。当たり前のことだが「テレビはスポンサーに有利な情報発信」をし、権力側のツール。公平中立の報道メディアではなかった。ジャーナリズムはとうの昔に駆逐され「都合が悪い報道は、ちょっと捻じ曲げ」「あるいは、報道しない自由」というテクニックを使って、我々を誘導してきたことがバレてしまった。
今でも、まだテレビ、新聞の言うことだけを信じ、コントロールされ続ける人は多い。「新聞やテレビのニュースを見て、自分は世界を知っている」と思い込んでいる。「日本の偏向報道」について調べようともしない。気づかない。海外では全く違う意見が報道されているのに・・
平成に入ってから、特にその傾向が強まったと思う。
そんな、横暴になった「マスコミ支配」の時代に、ボクは音楽デビューをしようともがいていた。
あの時代ーー
新しいものが生まれるわけはなかった。全てのシステムは確立し、既得権益が権利を分配、管理した。ブームはテレビが作る。誰を表舞台に出すかはテレビと権力者や業界人たちが話し合って決める。アーティストも、彼らが「操る」人形になった。
ボクらのような「自然発生的なバンドになんて」チャンスが巡ってくるわけがない。あのコンテストが最後のチャンスだった。昭和の時代に、デビューできなかったボクらに未来はなかった。幕が、閉じたんだ。
テレビが企画したもの以外、アリの入りこむ隙間もなかった。
具体的なストーリーで考えるヒントをつかもう。
ドキュメンタル STORY で人生をリセット!
〜机上の空論じゃ現状を変えられない。実例からヒントを得よう〜
ボクについては プロフィールを見てね
SONG-66 委任状契約
話は前後するけど。
世界大会が終わって すぐケーシーさんと連絡をとったんだ。メンバー全員、家に招待された。
※ケーシーさんについてはコチラ⇦Click
自由卯ヶ丘のケーシー・ランキン邸ーー
どきどきしながら呼鈴を押すと、髪の長い日本人の奥さんが扉を開けてくれて・・ 中へ入ろうとすると
「うわっ!」
黒い大きなラブラドールと 種類の分からない小型の犬に『検問』を受けた。
匂いをかがれ、ペロペロと味のチェックまでされて。 さらに細かい荷物検査まで受けようかというころ、
「バーニー、チャンプ! イッツ イナーフ。カム ダウン」
ケーシーさんの声に2匹もやっと諦めて。無事、ボクたち移民の入国が許可されたってワケさ。
大きなコップに飲み物を入れて、奥さんのヒロコさんが皆に渡してくれるんだけど・・
壁に掛かったモデルみたいな顔をした子供たちの写真、床に敷かれたラグ、ソファに寝そべる犬たち。
う~ん、アメリカーンて雰囲気ただよっちゃってるんだ。
地下室があって、そこはプライベート・スタジオになってる。
大型のコンソールや「弁当箱」と呼ばれる 24トラックのマルチ・レコーダー、エレクトリック・ピアノやら高そうなアンプが所狭しと並んでて・・ 溢れた機材やギターのハードケースが山積みになってるんだ。飛行機の手荷物シールが いっぱい貼られたギターケースを開けると予想通り――― ギブソンやらマーチンやら、12弦のオベーションやらがざくざく出てくる。
宝の山にボクたちは興味津々の興奮状態で、へらへらと笑いっぱなしでね。
ショーグンの時の印税で買ったらしい。ここの家と、隣にもう1軒。
都内の、自由が丘。一等地だぜ。そんなに儲かるのかよ、プロって・・
聞けば、当時はザクザクお金を使っていて。
毎晩、豪遊してたらしいけど 奥さんが「それじゃ駄目だ、と思って」 少しづつ貯めて買ったんだって。
ナイス!!
それにしても・・ショーグンはミリオン・セラーにはなってないんだぜ。一番売れた曲が50万枚ちょっとで。
それでも凄いけどさ、家が建つのかよ、2件も! 作詞、作曲、アレンジ。ほとんどケーシーさんが手がけてるとしても・・そんなオイシイ世界なワケ?
壁にかかった いくつものプラチナや、シルバー、ゴールドディスク。
ボクの夢が目の前にある。へー、自分たちの曲ばかりじゃなくて、松本伊代みたいなアイドルのレコードアレンジでも賞を獲ってんのかよォ。
きょろきょろ落ち着かないボクたちの前に契約書が差し出されて。どきどきどき・・
緊張に震える手で、皆がサインをした。それが終わると とたんにくつろいだ気分になってさ。
「ザンネン ダッタネ」
ケーシーさんに言われたボクは、
「ええ。・・・・でも、世界の壁は 厚かったですよ」
と素直に負けを認めた。
すると、ケーシーさんは「アハハハハ」って 屈託なく笑いながら、
「コンテストハ、時ノ運モアルヨ。ジーニアスハ アソコマデ 行ッタデショウ? ソコマデ行ケバ モウ、皆ガ一番ヨ。ダイタイ音楽ニ順番ツケル方ガ オカシイ。アル程度マデ行ケバ アトハ好ミノ問題。ボクハ ソウ思ウネ」
と言った。
なんだか そんな気がしてくる。
ジョークを交えながら、悪い状況を笑い飛ばす所が アメリカ人のいい所だ。暗くなっても、前には進めないからね。
「でも、外タレみたいに武道館のステージに立てなかったのは、残念だな。折角のチャンスだったのに」
マコト・クレイジーが苦笑いして言うと、
「ブッドーカァン ハ 自分タチノ 力 デ立ツノヨ。レコーディングシテ CDヲ出シテ、ヒットサセマショウ。ソウスレバ ブッドーカァンヨ。ジーニアス ダケデ ブッドーカァン コンサート シタ方ガ、カッコイイデショ?」
なる程。いちいち言う事がごもっとも。
ボク達でCDをヒットさせて、武道館に立つのか?その方がいいや。
「ヤクソクヨ、ブッドーカァン 立チマショ」
ケーシーさんの言葉がきっかけで、ボクたちは持っていたグラスを高く掲げ、
「カンパアイ!」
「武道館ですね? カンパアイ!」
「カンパアイ!」
誓いの乾杯をした。
そうやって レコーディング・プロデューサーの Mr. Casey Rankin と契約を交わしたボクたちは、さっそくレコーディング作業に入った。
「アルファ・レコード」だったか「キング・レコード」の外部スタジオが、音羽かなんかにあって。そこでデモテープを作ったんだ。
プロのスタジオ。プロの機材。そして、ミスター ケーシー・ランキンのプロデュースでね。
「ああ・・・ここまで来たんだなぁ。ずいぶん高いところまで登ってきた」
ボクは感動しながらスタジオで作業に没頭した。ボク達が緊張しないように、ジョークで和やかな雰囲気を作って・・・ そういうケーシーさんの心遣いが、すごく嬉しかった。
レコーディングというのは、魔法なんだ。
マイクの位置や、向きをちょっといじるだけで、全く違う音が録れる。
「アンビエンス ガ 録リタイネェ。マーシャルノ所ノ マイク オフゥッテ クレル? モウ チョット・・・・ OK。 ア、右ノギター パン フッテ」
ケーシーさんのやることは、いちいち的を得ていた。オペレーターへの指示が早くて正確なの。
ドラムを録る時にも、スネアを固く固く皮を張っていくから、
「大丈夫かな?」
と、不安になったけど、ゲートリバーブをかけて 「シュウッ」っと逆まわしみたいな音に仕上がった とき、あまりのカッコ良さに舌を巻いた。
プロ中のプロだよ。
あの人は、音の全てを知り尽くしている。
ボクうれしくて仕方がなかった。自分が作ったジーニアスというグループ。それをボク達以上に大事 に扱ってくれて、自分達の気付かない部分まで引き出してくれる。
「プロっていうのは、こういうものなんだ。プロは凄い。さすがだ」
特にミックスダウンの時に、その真価が発揮された。
何日もかけて録り溜めた たくさんの音。音。音 ――――――
それを交通整理して、大きくしたり、時には捨ててしまったり。パッと聞いただけで、瞬間に処理の 方法を考える。
天才だと思うね。まさに天才がボクたちを導いてくれている。
出来上がった音は。
ボク達とは思えない程、クオリティの高い、素晴らしい物だった。
本来なら、ケーシーさんの仕事はここまで。
制作サイドの人間だからね。
でも委任状契約をして、ボク達の行く末に責任を感じていたケーシーさんは、そのデモテープを持って あらゆるレコード会社を廻ってくれた。
各レコード会社のトップと付き合いがあるから、簡単だと思ったんじゃない? ボク達をデビューさせ るの。
・・・・・・ところが。どこのレコード会社も引っかかって来ない。興味を示さないんだ。
原因は ――――――
時代が変わって「テレビがアーティストを作る」って方向に変わって行った、というのがある。あとは・・
サウンドだろうね。
時代が「タテノリ・バンド」ブーム だった、ってこともあるだろう。
でも事態はもっと深刻だったのかも。
当時、ボク達はハードロックのアレンジに歌謡曲みたいなメロディーを乗せてやっていた。
ちょうど海外のロックをコピーしまくっていた時期だ。
カバー曲は、めっちゃ ロックしてるのに、オリジナルは 日本語歌謡ロックみたいな所から本物ロックへ移行している時期だった。
オリジナルとカバーの方向性が違ってきてバランスの悪い頃だ。あの頃の曲、ハードロックのアレンジに歌謡曲みたいなメロディー。
スタッフは、「ハード ポップ」とか呼んでいたけど、今考えると やっぱりダサいよ。
ケーシーさんは認めてくれていたけど・・・・・悪いことしたな。
ボクがあの頃の作品を一切出さないのは、レベルに達していないからだ。勢いに任せて あんな曲作っていたなんて。ロックを求める制作陣はやらないだろうし、もっと歌謡曲よりの業界人にはロックすぎる。つまり、あの頃のボクたちのサウンドを求めてる業界人がどこにもいなかった、ってことだ。
コンテストで花開いた「オレは女が口説けない」みたいな曲を、もっといっぱいレコーディングすれば 興味を示すレコード会社もあっただろうが。
少しづつ、いい曲も出来てきた頃なのに。
まだまだパフォーマンス抜きの「楽曲の質」で業界人を唸らせるレベルに達していなかった、って理由は大きかったのかも。
それから 何度も言うけど、時代との「ズレ」ま、こっちの理由の方が大きいな。ボクらは「お呼びじゃない」時代の空気感、というのがあった。
タテノリ バンド ブームが吹き荒れていたからね。最初、昭和の時代には「タテノリ」なんて違和感があった。彼らを支持する人は少なかった。
でも、平成の時代になると ガラっと空気が変わって。世間は突然、受け入れ始めたんだよ。そういう連中がいっぱい「イカ天」に出て。そう、テレビがブームを作る。ヤマハのポプコンやイースト・ウエストから新しいバンドが出ていたのが、平成になると 新人は皆「イカ天」から出てくる、みたいな感じだった。
あの世の中の空気、ロックンロール・ジーニアスとまったく合わない時代が始まったんだ。
そんな こんなで、だんだん焦って来たんだよ。
どこも決まらない。誰も助けてくれないんだ。
ある日、メンバー全員が呼ばれて ケーシーさんの家に行った。
地下のスタジオで、ボクたちのデモテープを 大音量で聞かせてくれた。
いい音だ。
「ボクノ 力不足ネ。ゴメン」
どこのレコードメーカーからも、「良いオファー」が得られなかったことを、申し訳なさそうに話す ケーシーさんを見て、
「いえ、そんな・・・・・ケーシーさんは すごくやってくれてますよ。感謝してます」
言いながら、孤独を感じた。この時代に、ひとりぼっち。
「ウン・・・・・アトハ ジーニアスニ 運ガアルカダネ」
また「運」か。ケーシーさんの言葉に、誰にぶつけていいかわからない怒りが込み上げてきた。
その運に見離されて 武道館に行けなかったんだよな、ボクたち。すごく不安になってきた。
いろんな方法を使って 売り込みをかけてくれている。すごい労力をさいてくれたんだ。金にもならないのに。無料奉仕ってヤツだよ。ケーシーさんクラス の人が・・・・・考えられない。
でも。どうしても駄目だった。どこもいらないってさ、ボク達・・・・嫌われちゃった。
コンテストに優勝してデビュー、あの時の勢いのまま 行ってればな・・・
最後、どうにもならなくなった時、それでもケーシーさんは
「ボクハ 今ダニ 信ジテルヨ。カズタチ、ジーニアスハ 最高ヨ。デモ・・・・ゴメンネ。駄目 ダッタ」
それから 又、おどけてジョークを放ったんだ。
「ボクハ 満足ヨ、ジーニアスト レコーディング出来テ。老後ニ 孫ニ聞カセル 素晴ラシイ アルバムガ作レタネ」
ケーシーさんもボク達も笑ったけど、どことなく笑いに力が無い。
全員「アハハ」と笑いながら、ボク達が帰る間際。ケーシーさんは 突然 まじめな顔になって
「ボクハ アキラメナイヨ。コレカラモ ジーニアスヲ 色ンナ所ニ紹介スル。今ハ駄目デモ、キット イツカ イイ仕事ヲシテ・・・・憶エテル? ブゥドーカァンニ 立チマショウ」
それは、とても遠い事に思えた。と言うより、今となっては 夢物語りの空想かも知れない。
再び出会う日は あるのだろうか?
自由が丘の家を後にした。
デビューも消えた。武道館にも立てない。バンドの未来が見えない・・・
こうなるともう、解散する以外になかったんだ。
パリーン、て壊れて。
みんな飛び散って、別々の方向に歩いて行った。
思えば。
ボクは、この時から「約束の場所」に向かって 1人、歩き出した。
そう、約束の場所。
本来 立つべきだった 武道館。
いつかたどり着けるだろうか?
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