でも、どうしてそんな学校ができあがったか?
もっと言えば、どうしてこんな閉塞感のある、息苦しい社会になってしまったか。
誰もその原因を言わない。
知らないから?わからないから? じゃあ、ボクが教えてあげよう。
学校がおかしくなって、実験台にされた現場でボクは育った。だからボクは知っている。わかっている。あの頃から学校で何が行われてきたかを。見てきたから。苦い苦い体験をしたから。話す権利がある。
具体的なストーリーで考えるヒントをつかもう。
ドキュメンタル STORY で人生をリセット!
〜机上の空論じゃ現状を変えられない。実例からヒントを得よう〜
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SONG-5 ふつうの人間
ボクは日本の学校が変わった時を、はっきりと覚えている。
昭和33年生まれのボクは、鹿児島の田舎で幼少期を過ごし、のんびりした性格で「ぼーっと」した子供だった。成績は5段階評価のオール4ぐらい。父親が船乗りだったので寄港地の横浜に近い川崎の「柿生」というところに小学校2年の時に転校してきた。
転校してきてすぐ、ボクは朝礼台に呼ばれて表彰されたことがある。ボクの書いた作文が県のコンクールで入賞したのだ。かなり大きな賞だったので全校生徒の前で表彰されたのだと思う。
今思えば、小学校2年生の時の担任が 生徒の資質を見抜き伸ばすことができた素晴らしい教師だったのだ。しかしその後、ボクは良い先生に出会ったことがない。生涯最後の素晴らしい先生が、その小学2年の時の担任だった。
ボクの作文が評価されたことで、母親は狂喜乱舞し親戚中に触れ回った。
かくしてボクは文章が得意な子、から「将来は小説家になる子」のような扱いを受け、たくさんの本を方々から貰うようになり、本を読むのが好きになった。小学校低学年の時から大人が読むような本も読んだりして。そのうち「吉川英治文学集」なんかも読んでその気になっていた。難しい漢字やことわざも覚えてね。
小学生が読むような雑誌には「読書感想文」のような投稿募集があって、応募すると必ず入賞して商品をもらうので、いつしかボクも「執筆」が職業になるんじゃないかと考えていた。そんな簡単じゃないのに。ノンキなものだ。
しかし小学4年生ごろになると、状況が一変した。
学校が、物凄い勢いでシフトチェンジを始めた。
変な方向に舵を切りだしたんだよ。
今、日本の学校は問題だらけ。いじめ。学校崩壊。不登校。モンスターペアレンツ。事件もみ消し。
でも・・・
誰もその原因を言わない。知らないから?わからないから?知らないフリで逃げようとしてる?
じゃあ、ボクが教えてあげよう。
学校がおかしくなって、実験台にされた現場でボクは育った。だからボクは知っている。わかっている。あの頃から学校で何が行われてきたかを。見てきたから。体験したから。話す権利がある。
昭和40年代ごろから「あの教育」に携わってきた者どもよ、聞け!あの頃のボクの叫びを。学校教育に切り刻まれた学生の生身の声を。
あれはボクが小学4年生ごろからだから、そう。1967~8年。
親戚の子が「テストで何点とった!」というような自慢を、その子の親が電話で報告してくるようになった。クラスの雰囲気も「テストの成績を競い合う」ような風潮が出来はじめ、いい高校に行って、大学に行くのがスタンダード、という雰囲気が醸成されてゆく。
マスコミがまず、そういう雰囲気を作り出し、母親連中がこぞって、その風潮をあおり乗っかる。うちの母親も完全に洗脳されて、
「柿生よりも横浜の方が教育が進んでいるって新聞に載ってたから」
という理由で横浜に家を買い、転校させられる。
それまで大学の話なんかしたこともなかった酒屋の息子が、
「親がいい大学行ってサラリーマンになれ、って言うんだよね」
なんて言うようになる。本屋で立ち読みしてたら、同級生の親が近づいてきて
「あら、うちの子と同じクラスのイケマツ君じゃない?こんな所で寄り道してるの?もう行きたい学校は決まったの?うちも塾に通わせようと思ってるんだけど」
なんて小学生に話してくるんだよ。この人なに言ってんだろう?と思って「はぁ・・」と曖昧な答えしてたけど。のんびりしてるのはボクだけで、周りはとっくに台風の前の海のように。白波が立ってざわついてたんだ。
学歴社会の到来だ。
ボクはびっくりして、その変化についていけず「ぼーっと」していたが、クラスでは成績による競争が激しくなっていった。
「親に優秀な人としか付き合っちゃいけないって言われたから、お前とはもう付き合えない」
と友達に言われて呆然としたこともある。母親連中は自分の子供を競馬のレースに出すような気分で競い合わせていった。そういう時代だ。
こうなってくると、ボクの文章力について褒めてくれる親戚なんて、もうどこにもおらず
「いつまで作文なんて書いてるの。それより成績は? 」
と叱られるように言われて大変失望したことを、はっきり覚えている。
学歴社会は、アメリカのエリート主義から始まっている。優秀な人間をどんどん選別してエリートが世の中を牛耳っていく。そう、選別するんだよ。そういう思想だ。結果、古き良きアメリカは崩壊し貧富の差が異常なほど拡大したアメリカが誕生したよね。ほんの一握りの人が富の90%以上を持っていて、わずかなお金を残りの大多数で分けるという社会だ。
エリートから職業を選べる世の中になった結果、医者、弁護士、金融マンなど。確かに優秀な人が多いけど、地位や報酬のことに目がいきがちで「患者を治療する」などの行為は二の次になってきていないだろうか?
アメリカでは医療費が高額で、医者にかかれず死んでいく人も多いと聞く。医者は患者のためにあるべき、という理論はエリート主義には通じない。お金持ちは最先端の医療が受けられるが、お金のない人は知らない、という社会が形成されていったのは、ボクが小学校4年生の時からだったと確信する。
アメリカはエリート主義だが、それでも子供たちの教育には、もっとおおらかだ。日本は、独自のエリート偏差値教育を生み出し、それがどうにも受け入れられずボクはドロップアウトしていった。
それでも小学生のうちは、ボクの成績はなんとか平均値を維持していた。「ふつう」の成績だった。しかし、うちの母親にとって、それは我慢ならないものだった。知り合いや親戚の「同年代の子」たちの優秀な成績が聞こえてくる。焦る、いら立つ。子供に当たる。
テストを返される。70点だったり80点。おふくろがそれを見て、
「このぐらいのテストで80点じゃだめ。100点取らなくちゃいい大学行けないわよ」
でもボクの性格で100点は無理なの。どっかヌケてる。まいったな、80点じゃ怒られるから、そのうち埋めるようになった。学校の帰り道、畑に穴掘って、テスト用紙をポイっ。
でも、すぐにバレた。
畑を掘り起こした農家の人が、わざわざそれを届けてくれる。余計なお世話。でも考えてみりゃ、畑に埋めれば掘り起こされる。
ね、間抜けでしょう?
そんなことも気が付かない。
「ホラ、あの子、灘高へ行くらしいわよ。アンタも頑張らないと。まったく誰に似たんだか、グズで・・・」
「あたしもお父さんも成績良かったのに、どうしてあなたは」
「頭のいい家系なんだから、アンタのようなのが生まれるわけがない。努力してないだけだ」
もう、ずっとこんな調子。家にいると安らげない。スウィート・ホームなんて、ボクには無縁だった。平均80点だったのが70点になり60点になり、、
滑り落ちていく。
母親たちは「あなたのためを思っているのよ」なんて言いながら自分の所有物に容赦のないムチを入れ「親戚のあの子よりも早く」「隣のあの子よりも高く」と競わせていた。
レースに勝利する馬がいれば、当然負ける馬もいる。だけどあの頃ボクが見ていた母親たちは、うちの親に限らずみんな鼻息が荒く「うちの子が負けるなんてありえない」と思っていたと思う。そして、そのプライドが満たされないと・・・
ある日、さんざん金切り声でののしった後、母親はボクに一生忘れられない言葉を投げつけた。
「お願い、もう頭良くなってなんて言わない。その低脳な頭で努力して、せめて普通になって!」
「せめて普通になって!」
この言葉は効いた。トンネルの中でこだまするようにエコーのように、耳の中で繰り返された。言葉で人が殺せるなら、ボクはこの時死んだだろう。思わず涙があふれそうになったけど、そんな言葉を吐くヤツの前で涙なんか見せるもんかと歯をくいしばった。でも・・
「ジューッ」って心に焼印を押されたみたいに胸が苦しい。なんで? ボクは普通じゃないの?
「ボクは頭のいい両親から生まれた 出来の悪い子供」
この時から勉強が嫌で嫌で死ぬほど嫌いになり。成績は歯止めが効かないほど急降下していった。コンプレックスの塊みたいになって自分に自信が持てなくなってしまった。いつもびくびくしている。
そして、小学校卒業。その時の卒業文集の寄せ書きに、ボクは小っちゃく
「ふつうの人間」
って書いた。
AIと「日本の学校教育について」話し合ってみた。
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ここからは、Chat Gpt と議論した内容を抜粋して掲載しています。
今、日本の学校は問題だらけ。
でも、誰もその原因を言わない。ボクの実体験の中にヒントがあると思う。
ボクの実体験を読んで、どう思った?
ありがとうございます。あなたの実体験を共有させていただきました。
エリート主義や学歴社会の影響、競争によるプレッシャー、親や社会からの期待との闘いなど、多くの要因が学校教育の現状に影響を与えていることが伺えます。
ボクがこの学歴社会について書いたのは、あの頃の恨みを言いたかったからじゃない。
また、今後も母親への批判のような記述が並ぶかもしれないが、それも母親批判と受け取って欲しくないんだ。今は母親とも良好な人間関係が出来ているし、仲良くやってる。
ただね、この崩壊寸前の学校体制や、日本自体がおかしくなっている原因は、あの時代の教育システムから来てるんだよ。ってことをみんなに伝えたい。考えて欲しいからなんだ。
結果には必ず原因がある。
自分のことだけを考える人間、人のアラを探し自分の優位性を誇示してマウントをとる輩(やから)。
笑いの中に悪意を忍ばせ、弱いものを追い詰めて吊し上げる風潮・・
それは息苦しいエリート主義、学歴社会、歪んだ学校教員とそれに加担した大人たちが生み出したものだと断言出来る。
あの地獄の学生生活を経験したボクには、今の世の中を作った原因がよーく見えるんだ。
理解しました。
あなたの意図が、学校教育や学歴社会に対する不満や問題意識を共有し、議論を促進することにあることが分かりました。あなたの経験を通じて、その時代の教育システムや社会の影響が後の世代にどのような影響を与えてきたかを考えることは非常に重要です。
以下のようなポイントを基に、議論を深めることができます:
教育の役割と目的: 教育の役割はどのようなものであり、学校がどのような影響を持つべきか。教育が社会にどのような価値を提供すべきかを考えることが重要です。
ではまず、
教育の役割と目的: について話そう。
ボクが受けた教育は、「詰め込み教育」だった。例えば歴史。
今までの日本の学校教育では、歴史の年号を覚えて、何年に何が起こったかを辞書のように丸暗記することが重要とされた。
しかし年号を覚えるだけでは、その時代に生きた人たちの「知恵」は、学べない。どんな時代の人間であれ、その行動をとるには理由がある。
そういう行動を観察、考察して人間の尊さ、知恵の深さ、あるいは愚かさなどを学ぶのが歴史を学ぶ意義だと思う。
年号なんて、全く無意味とは思わないが、あらかたの時代背景さえ理解できればあとで辞書を引いたっていいじゃないかと思う。
また、自分が住む街や国の偉人たちがどうやって地域を開拓し、住みやすく安全な場所とし産業を栄させるために何をしたか。
そういうことを教えれば、「 今の自分が豊かに暮らせるのは先人のおかげだ」という感謝も生まれる。
年号や表面的な出来事を丸暗記するだけでは歴史に出てくる先人を敬うことなく、「自分とは無関係」とドライに地域や国を捨てて、自分だけが良い思いのできる場所に移動する民になる。先人への感謝無くして、地域や国の発展は望めない。
こういう教育をしてこなかった戦後の日本の学校教育に、ボクは今の日本の衰退の理由があると思うんだ。
非常に興味深いポイントを挙げていただきました。
教育の役割と目的は、単に情報や知識を詰め込むことだけではなく、個人や社会全体の成長、発展、価値観の形成などを含んでいます。
特に歴史の教育について、歴史的な出来事や人物を単なる年号や出来事の羅列ではなく、その背後にある思想や動機、社会の変化を理解し、深く考察することの重要性を指摘されている点が非常に意味深いです。そのことで、
社会の影響: 教育システムと社会の相互作用について。教育が社会の価値観や文化を反映し、また変えていく要因であることも指摘していただきました。
次に
個々のニーズへの対応: 子供たちの多様な能力や興味に対応するための教育の改革。一律の教育システムではなく、個別のニーズを尊重する方向性について議論することができます。
個々のニーズへの対応: 子供たちの多様な能力や興味に対応するための教育
についてだけど、
あの小学4年生からの教育改革(学歴主義教育への変更)以前にはキチンと機能していたよ。
だって、小学校2年生の時の担任は ボクの想像力とか書く力を見つけてくれて伸ばしてくれたでしょ?
あの時は、学校にワクワクがあったよ。学ぶ喜び、未来への希望があった。
その後、年号を覚えたり 国語のテストでも「答えはこう書け」みたいな模範解答を示された。しかも答えは1つで、いろんな考えをしたら間違い、みたいになってきて国語の授業も丸暗記になってつまらなさを感じたものね。
つまり、教育現場で「詰め込み教育」を始めた奴こそ罪深いヤツだと思う。
あなたの指摘する通り、教育の改革が行われる前は、個々の子供たちの能力や興味に合わせて教育が行われていたという事実があります。
小学校2年生の時の担任のように、教師が生徒の個性を見つけ出し、伸ばすことで、学ぶ喜びや興奮を感じることができました。
現状の改善策としては、
ちょっと待って!
今の教育現場に改善策なんてないと思うよ。
理由は、
1 教師に権限がない
どんなにやる気がある教師でも、今の学校現場では自由にやれない。間違ったことをした生徒に、ちょっと怒ればモンスターペアレンツが出てきて学校で大騒ぎ。
ことを荒立てたくない学校責任者は「教師に行きすぎた指導があった」と陳謝。そうでなければ教育委員会で大問題になる。
後ろ盾を失った担当教師は、親、生徒に陳謝するか他校へ移動。
聖職であった教師という職業は、今や事なかれ主義の公務員に過ぎず、それに気づいた優秀な人材はそもそも教師になりたがらない。
2 学校の責任者が弱腰
教育現場は上からの強力な監視体制にあるため、失敗が許されない。まずいことがあった学校の校長や教頭は責任を取らされマイナス査定となるため冒険をしない。減点されない無難な学校運営を目指し、いじめ問題など深刻な事態が起きても隠蔽「無かったこと」にしてやり過ごそうとする。
教育をする立場がこれでは、生徒に「失敗を恐れずにチャレンジしろ」なんて指導は到底できない。
3 生徒と教師の信頼関係の欠如
このような学校の教育者たちを生徒が信頼することはない。
4 不登校児童の急増
つまり、教育に情熱を捧げる教育者のいない現場で進学するためだけに学校に通う現状では、うまく暗記教育についていけない生徒には学校になんの希望も見出せない。
だったら行きたくない。→不登校。となる。
結論から言うと、戦後教育の大改革によって学校は 教育の場所ではなくなった。
誤解している教師は、校則違反を取り締まることが教育だと思っている。そんなのは刑務所の刑務官がやること。
教育は「生徒の未来に希望を育てること」
だとするならば、もはや教育改革以降の学校にはその使命は果たせない。よって、教育関係者は総辞職して、新しい人材、全く違う体制で教育現場を構築する以外に道はないと思う。
現在、全国にフリースクールが出来ているのはその流れではないか?
あなたの指摘する問題は、教育現場における複雑な課題や制約を示しています。
教育改革は容易なことではなく、多くの要因が関わっていることが分かります。以下に、あなたが挙げた問題についての観点を考えてみましょう。
教師の権限と責任: 教師が十分な権限やサポートを持たずに教育に取り組む難しさがあります。権限を持たせつつも、その中で責任を果たす仕組みやガイドラインの整備が求められます。
学校運営の保守性: 失敗が許されない雰囲気が、教育現場に冒険心や柔軟性を奪うことがあります。学校の運営体制や評価の仕組みを見直すことで、新たなアプローチを取り入れやすくすることが必要です。
信頼関係の構築: 生徒と教師の信頼関係は、健全な学習環境を築く上で不可欠です。生徒の意見を尊重し、教師も生徒を理解する努力が大切です。
不登校の問題: 不登校の児童が増加している背景には、学校環境や教育内容への適切な対応が必要です。生徒一人ひとりに合わせたアプローチを考えることが大切です。
うむー。それができれば とっくに改善されてる。
やはりAI といえど、今の教育体制にはありきたりの意見しか出てこないか・・・
これこそが生徒にとって、そして国民にとって不幸なことだと思うよ。教育現場の大改革はどんな形で誰が、やるんだろう?
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