「作られたもの」以外が表舞台に出る難しさ
ビートルズのデビュー曲が「ラブ・ミー・ドゥ」であることは、多くの人が知っているだろう。
彼らは「天才でなんの苦労もなくデビュー」かと思ったら大間違い。
やはり彼らも デビューまでに幾つかの辛酸を舐めている。以下、3つのエピソードを紹介する。
① デビュー曲を3人のドラマーが叩いている
実はこの「ラブ・ミー・ドゥ」
1962年6月6日に ビートルズが「音楽プロデューサーのジョージ・マーティンのオーディション」を受けた時に演奏した曲だった。
その時の「デモ・録音」は ピート・ベスト という ビートルズ初期のドラマーが叩いていた。
しかし、ジョージ・マーティンは「バンドに於けるドラマーの重要性にこだわっており」ピート・ベストのテクニックとセンスに大いに不満だった。だから別のドラマーに変えてデモ音源を作り直そうと考えた。
本来であれば バンドメンバーはドラマーを守る側に動きそうなところだが、ジョン・レノンやポール・マッカートニーは ピート・ベストと折り合いが悪くなっていた。相性が悪いのか性格が気に入らないのかテクニックの問題か・・一説には 「ルックスが良すぎて他のメンバーが目立たなくなるから」という説まである。とにかく彼らは ドラマーを取り替える「いい きっかけ」を得たのだ。
その頃 半分プロの道を進んでいた リンゴ・スターが次の「ビートルズのドラマー就任」するわけだが、彼はとてもカッコよく見えた。
ビートルズのメンバーに先んじて、すでにプロとしてドラムの仕事をしていたわけだし、テクニック的にもピカイチだ。車も持っていて リンゴ・スターという芸名までつけている。
ジョン・レノンやポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスンにしてみれば「自分たちの理想」を先に叶えているように見えたわけだ。
で、9月4日に次のレコーディングがあり。
ジョージ・マーティンは、レコーディングでスタジオに現れたリンゴを見て バンドのドラマーが変わったことを知り、驚く。
とりあえず演奏させてみるが「さすがのリンゴ・スターも」プロとはいえ、まだ駆け出し。有名プロデューサーの前でいきなり演奏となれば ガチガチにあがって本来の実力が出せず。
プロデューサーの合格をもらえず、結局 控えていた プロのセッション・ドラマーのアンディ・ホワイトでレコーディングは完了した。この時、リンゴ・スターは 屈辱の「タンバリン係」に格下げされ相当悔しい思いをしたそうだ。
つまり、「ラブ・ミー・ドゥ」は、ドラマーが異なる3つのバージョンがあることになる。
② デビュー曲が「ビートルズ以外の人の曲」の予定だった?
こうして、ビートルズは いよいよシングル・レコードをリリースしメジャー・デビューすることになったわけだが、ジョージ・マーティンは ビートルズ以外のコンポーザーに曲を依頼。
デビュー曲は、まったく違う曲になる予定だった。
というのも、
当時はまだ「シンガーソングライター」というスタイルは珍しく、コンポーザーと演奏者は別々というのが一般的。シンガーソングライターというスタイルが普及したのはビートルズの成功があってこそだ。
つまり。当時の常識として ジョージ・マーティンは、他のコンポーザーが制作した「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」という曲で ビートルズをデビューさせようとした。この曲ならチャートNo1を確実に取れるだろうから、彼らのデビューを華々しく飾ってやれるだろうと考えた。
実際、この曲は 1963年に ジェリー&ザ・ペースメイカーズがリリースし、マーティンの予想通りチャートNo1を取った。
が、マーティンの提案に喜ぶかと思いきや、ポール・マッカートニーが「どうしても ラブ・ミー・ドゥ でデビューしたい」と言い張ったため、最終的に「ラブ・ミー・ドゥ」が ビートルズのデビュー曲になった。
③ リンゴ 無念!
そんな経緯で、やっとデビューに漕ぎつけた「ラブ・ミー・ドゥ」
が!
初版は、リンゴがドラムを演奏したバージョンだったものの、再版からは スタジオ・ミュージシャン アンディ・ホワイトのバージョンに差し替えられ、ファースト・アルバムの「プリーズ・プリーズ・ミー」でもそれが使用された。
車の中で 肩を寄せ合いながら聴いた デビュー曲
「ラヴ・ミー・ドゥ」が初めてラジオから流れた時、メンバー同士 車の中で 肩を寄せ合いながら聴いた
という逸話がある。実はこれとそっくりな体験を 我々「ロックンロール・ジーニアス」もしたので今回のストーリーでそのことについて触れている。ぜひ読んでみて欲しい。
具体的なストーリーで考えるヒントをつかもう。
ドキュメンタル STORY で人生をリセット!
〜机上の空論じゃ現状を変えられない。実例からヒントを得よう〜
ボクについては プロフィールを見てね
SONG-85 地方ツアー
物事には全て、タイミングというものがあって。
タイミングが合えば、いろんなことがうまくいく。全ていい流れになってくるんだ。でも大事な時、欲しいときに「それ」がないと・・
子育てのへたな親。従業員の心を掌握できない経営者。みんなタイミングが悪い。ヤル気になっている時には「それ」が無く、諦めかけて 情熱を失いかけてから勿体ぶって出てくる。
お金だって、そうでしょ。欲しい時にくれるから嬉しい。感謝する。でも、散々勿体ぶって引き延ばされて渋々出されたら、どうよ? この野郎! ってなる。プレゼントでも、
「ほら、お前らのために用意してやったぞ」
って威張られても・・ タイミングよく出されなきゃ。最後まで出したくない、勿体ないと思って渋々、いやいや出されても・・・
もう遅い。「あー、そうかい」ってなっちゃう。だったら いらねーよ、と。
とっくにそんな気なんかねーんだよ、って怒りを買うだけだ。
どんなに「それ」が高価なモノでも、ね。もうなんの値打ちもない。
それが理解できないと
「なんだよ、うちの奴ら!せっかく買ってやったのに・・あれほど欲しがってたくせに移り気だなー うちの社員は」
なんて バカ社長は 的はずれな事を言って ますます周りから反発を食らうんだ。
タイミングというものが、どれほど大事なものか―――
デビュー延期のまま、ボクたちバンドは ツアーに出掛けることになった。
このツアーというのは。デビュー キャンペーン用に組んだものだった。
鹿児島、秋田。関東の近辺も。ツアーして回る企画が立てられてたんだ。
しかし、CDが出ない。
親や親戚は、デビューするってことで 盛り上がっていてね。知り合いも一気に増えていた。でも・・
「今、ツアーに出ても意味がないよ。タイミングが悪い。売るCDがないんだもん。キャンペーンにならないじゃん」
ボクの言葉に レイ・ギャングが、
「中止にします?」
と言うと、場が騒然となった。
メンバーやスタッフで、話し合っている そんな所へ耕次が来た。
「いや。ツアーは予定通り行えばいいよ。延期になっただけで、10月には必ず CDは出るんだからさ。前宣伝ってヤツさ」
ノンキというか、楽天的な物言いに、カチンときた。
「だいたい誰のせいで、延期になったと思ってんの? あいつら怪しいから、話をつめてくれって言ったのに、自分はゴルフばっかりして 気を抜いてたから 騙されたんだよ」
ボクの言葉に、一瞬、場が凍りついたね。あまりにもハッキリ言っちゃったから。
弟の 耕次は ボクの強い言葉に、一瞬 たじろいで苦笑いしたものの、すぐに余裕の笑みを浮かべて、
「いや、その点に関しては、申し訳ないって 謝まっとくよ。うん・・申し訳ない」
神妙に頭を下げながらも、笑顔が輝いていた。こういう屈託のなさが、うちの弟には昔からあって、人たらしというか。憎めないヤツというか。結果、周りから慕われて神輿に乗せられ担がれる。目上に好かれる。後輩からは慕われて、いつの間にかリーダーになってるんだ。昔からそうだよ、弟は。
「デビューが延期になったのは、みんなに本当に申し訳ないと思っているよ。でも、あの後 中島 社長も反省したみたいでさ。先日 真木さんも交えて、 新しいタイアップを見つけて。その日取りも決まったから。もう変更はないから・・・安心して」
「どうだかね。信用できないよ、もう」
ボクが吐き捨てるように言うと、スタッフが慌てて とりなした。
「まぁまぁ、耕次さんだって 僕らのためにやってくれているんだし・・・そんなに責めたら可哀想ですよ」
デビューが近づいて。昔 ジーニアスに関わっていたスタッフが戻って来ていたんだ。いろいろとバンドの面倒を見てくれていた。彼らには感謝だけど、ボクの怒りは収まらない。
そんなボクの表情を横目で伺いながら 耕次は、
「新しい タイアップもね、夜中の番組に決まりそうだよ。今はまだ詳しく言えないけどね」
となだめるように言った。
タイアップなんか、どうでもいいけど、今度は騙されないように、デビューに影響がないように ちゃんとしてくれよ、って思うだけだ。
デビューするはずだった 8月は もうすぐやってくる。
叫びたいけど、叫んだって 何も変わらない。負け犬が遠吠えしているだけだ。世間の理不尽さに怒りで震えるようなことは、誰にだって訪れる。
しょうがない。今は、この耐え難いデビュー延期を受け入れ前に進もう。キャンペーンするんだ。
デビュー曲の サンプルCD とポスターを持って 有線放送の各地域ステーションを回った。六本木、渋谷、鹿児島、秋田、横浜・・・
FM のラジオも回る。と言っても、有名な番組には出演できない。無名な新人なんかお呼びじゃないもの。大きい放送局、有名番組なんかは「大人の事情」が絡んでる。B・ミュージックが裏から手を回してくれないと出演できない仕組み。
つまりね、
「無名の新人の ジーニアスを出演させるから、一緒に 有名な B や Z も番組に来させてよ」
って 番組プロデューサーから頼まれる。
「バーター」っていうんだけどね。有名なアーティストと無名な新人を 抱き合わせで 出演させる。無名の新人は、そういう交換条件が必要なんだ。他には、金を積む、とかね。
持ちつ持たれつ、大人の世界。ギブアンドテイク。
この世界は そういう取引があるんですよ、いろいろ。
でも、「売れるかどうかもわからない」ボクたちに、B・ミュージックは協力してくれない。勝手に、自分たちの力でやってろ。という放置プレイ。「放置キャンペーン」
だからね、知り合いの「ツテ」を頼って行くのさ。どこそこの地元に顔がきく人を見つけて。「ここの放送局だったら、出演させてくれるみたいよ。話、つけといてあげる」みたいなね。
もちろん、大きい放送局は無理。キー局じゃない。地方の、小さい放送局とか。誰が聞いてんのか分からないような、人気のないマイナー番組とかね。
それでも行くよ、出演させてくれるなら どこへでも。
よく覚えてるのは、
秋田のね、佐々木さん っていう「米農家」の人がいて。知り合いが、その人を頼って行けって紹介してくれたんだ。その人なら、秋田のラジオでも TV 局でも出してくれるから、って。
有名人だったんだよね、その人。
秋田で、有名な「減農薬 農法」を開発して、近代農業の革命児だったの。
美味しくて 農薬の少ない安全なお米を栽培してるってことで、 NHK とかが特集を組んで取材するような人だったんだ。
田植えや収穫の時期になると、都会の学校からも、「農業体験」で 学生がたくさん来るような。あの時代の注目の農家さんだったんだよね。
その、佐々木さんが口を聞いてくれて 秋田県内の テレビ局やらラジオに出演できた。
1週間ぐらい秋田に居たかなぁ。いろんな番組に出さしてもらった。寝泊りもタダで面倒みてもらって。
バンドメンバーとスタッフ、大勢で 食事もご馳走になり。
お寺にも泊まったな。そのお寺で「夏祭り」があるからって「盆踊りのやぐら」みたいなステージで演奏させてもらったり。野外 LIVE の後、有名な秋田の「花火」を見たり・・・
「デビューしたら応援するから。CD 買うから」って いろんな人に言ってもらって。「芸能人扱い」されてね。プロの雰囲気を味わわせてもらった。ディナー・ショーなんかも企画してもらって。出演したよ、大きな結婚式場にいっぱい人が集まって・・・
NHK の秋田放送局のラジオ番組に出演した時ーー
生放送じゃなく、収録だったの。昼間に収録したものを、その日の夕方に流す。
いろいろ取材されて。番組収録が終わって「お疲れ様でしたー」って帰ってった。
車に乗って帰ったんだけど。途中の食堂で飯を食って、長い道のりをドライブ。
峠があって。秋田の峠。山道。崖から見晴らしのいい景色が広がっていて。
夕方だった。車を走らせて峠を登っていたの。
オレンジ色の夕焼けが山の木々を照らして。
そうしたら、ボクたちの曲が。デビュー曲が。
ラジオから流れてきて。みんなで飛び上がった、さっき出演した番組だよ! 今 放送されたんだ、 ウワォ! って感じ。秋田でいろんな番組に出たけど、こうやってリスナーの気分で聞いたことはなかった。突然の出来事。
車を止めてさ。狭い車の中で。ラジオの前にみんなが集まって。電波がたまに不安定になる中で 聴いたんだよ。自分たちの演奏を。
たしか ビートルズも、デビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」が初めてラジオから流れた時、メンバー同士 車の中で 肩を寄せ合いながら聴いていた、って話があったでしょ?
同じだよ。ボクたちは まだデビューしてないけど。状況は同じ。
一生忘れないな、あの感覚。
秋田の峠で、あの日ーー
ラジオから流れる自分たちの曲を、みんなで 聴いたんだ。
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